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フラに関わる人々
今日、フラがこのように世界的に広まった背景には、その伝統文化を伝えるために尽力された人々の存在を忘れてはなりません。
ここでは、ハワイの伝統的文化であるフラに関わりのある人々を一部紹介します。
*参考文献: 矢口祐人氏 著「ハワイとフラの歴史物語」
フラのルーツを探す旅 [ He Wahine Hula ]

歴史上、フラに関わった人々は数多くいます。ハワイ王であったカラカウア王やハワイ王朝最後の王・リリウオカラニ女王、今なおフラとハワイ文化を世界中に広めるために精力的に活動されている人間国宝アンクル ジョージ・ナオペ氏など、フラとは切っても切れない存在の方々です。

デイビッド・カラカウア:David Kalākaua,(1836年11月16日 - 1891年1月20日)
正式には、David La‘amea Kamanakapu‘u Mahinulani Nalaiaehuokalani Lumialani Kalākaua,
1836年王家の血筋を引いて誕生。1872年、カメハメハ5世が跡継ぎを指名しないまま亡くなったあと、国王選挙に臨んだが、この時にはより知名度が高く革新的であったルナリロに敗れている。しかし、ルナリロ王も1874年2月3日に後任を指名しないまま逝去したため、カラカウアは翌日2月4日に国王に立候補し、故カメハメハ4世の未亡人であるエンマ女王を破り国王に選出されます。

カラカウア王はハワイ経済のためアメリカとの交渉を積極的に行い、1875年3月には、ハワイの産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせるところまでこぎつけました。 また、移民問題について学び、外交関係を改善するため1881年ハワイを発ち、サンフランシスコを経て日本、中国、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻ります。日本では明治天皇と謁見しているほか、ローマ教皇やイギリスのヴィクトリア女王とも会っています。
1890年、カラカウア王は体調をくずし、サンフランシスコへ移りますが1891年1月20日に逝去。彼の死後は、ハワイ王国最後の王となる妹のリリウオカラニが跡を継ぎます。

カラカウア王はその華やかな生活からメリー・モナーク(陽気な君主)と呼ばれ国民に親しまれました。
なお、彼がホノルルに建設したイオラニ宮殿はアメリカ合衆国にある唯一の宮殿です。
イオラニ宮殿 イオラニ宮殿
【 フラとの関わり 】
カラカウア王は、キリスト教宣教師によって50年もの間、禁止されていたフラを復興させた人物です。
1874年王位に就くまでに、ハワイの過去の伝統文化を知り尽くした作家として、また音楽家としてその名声を築いていました。17年に渡る治世の間には、忘れ去られていた古い踊りやチャントを再収集するとともに、それまで口承により受け継がれてきた王室秘伝の『クムリポ』(ハワイの創世神話)をはじめとするフラの古典を文書や録音として後世に残します。

世界を歴訪した際には、ウクレレなどの外国の楽器も積極的に演奏し、伝統と新しい文化を調和したハワイ文化を作ろうと尽力しました。フラ・ファンションにも、影響を与え、ホロクと呼ばれる裾の長いスカートやレース・ベルベットと言った生地をヨーロッパから持ち帰りフラに取り入れました。そんな流れの中で美しいメロディーをもつハワイアン・ミュージックが生まれ、これに振りをつけたのがアウアナ(現代フラ)のはじまりと言われています。
アウアナが、初めて披露されたのは1886年イオラニ宮殿で催されたカラカウア王の50歳の誕生日を祝うパーティーの席です。
また、カラカウア王は作詞・作曲もこなし、ハワイ王朝国歌(現在のハワイ州歌「Hawai'i Pono'i 」(ハワイ・ポノイ))を作詞しました。

ナサニエル・エマソン:(1832年 - 1915年)
約百年前「フラこそがハワイの文学」であると考え、この文学を忠実に記録しようと何十年にも渡り調査を行い、1冊の本にまとめます。1909年に出版された『文字にされなかったハワイ文学-フラという聖なる歌』(Unwritten Literature of Hawaii: The Sacred Songs of Hula)は、長い時を経た現在でもフラ研究の基本書とされる書物です。
エマソンは、アメリカからハワイへと渡った宣教師の息子として1832年オアフ島ワイルアで生まれます。
現在、ホノルル市内にあるプナホウ高校の前身であるオアフ・カレッジを卒業後、アメリカ・マサチューセッツ州の名門ウィリアムズ・カレッジで学び、南北戦争で北軍の兵士として従軍後、ハーバード大学とニューヨーク医学校で医学を学びます。
大学卒業後は、ニューヨークで医者として働いていましたが、1878年ハワイに戻り、政府の診療所でハンセン病患者の治療にあたります。
そして、次第にハワイの歴史と文化に興味を抱くようになり、「ハワイ歴史協会」や「ニュージーランド・ポリネシア協会」に入会し、ネイティブ・ハワイアンの人々にインタビューをし古い時代の詩、祈り、物語、歌を聞いて記録していきます。
ハワイで、生まれたエマソンは、ハワイ語にも精通しており、その語学力を生かして英語を話せない長老のクム・フラ達に直接会って色々な話を聞いてまわります。オアフ島をはじめ、カウアイ島・モロカイ島にまで足をのばし、研究します。
その成果を『文字にされなかったハワイ文学』と『ペレとヒイアカ』という二つの研究書にまとめます。また、ネイティブ・ハワイアンの歴史家デビッド・マロがハワイ語で書いた『古代ハワイ』の英訳を行うなど、亡くなるまでにフラに関する情報と資料をコツコツと収集し、その膨大な記録と資料は、現在ホノルル市内のハワイ歴史協会に保存されています。

エマソンは、『文字にされなかったハワイ文学』の中で、フラこそがハワイを理解する鍵であると主張し、また宗教性を強調し、フラは「いかなる冒涜も許さない」厳格で神聖な宗教儀式である事を繰り返し述べています。
冒頭で、フラがハワイ文化の中心的なものと位置づけたうえで、ハワイ各地で集めた100を超えるメレ(祈り)を紹介しています。このメレこそが、文字にされなかったハワイ文学の核をなすもので、ハワイ語に転記され、さらに英語に翻訳されています。しかし、「どれほど忠実に再現しようとしても、その意義を容易に理解することはできないだろう」としています。これは、メレに用いられる言葉に幾重もの意味が重ねられていることが多く、それを完全に訳することができず、言葉での翻訳では具体的なイメージがわかないからだと言います。
フラの種類については、現在では、「カヒコ」「アウアナ」の2種類に大別されますが、本書では驚くことに30種類ものフラが紹介されています。そのほとんどが既に忘れ去られており、どのハラウでも教わることはできません。
また、踊りそのものや楽器についても、図解入りで詳しく説明されています。
このように、エマソンはフラのあらゆる面を調査し、詳細に報告しています。エマソンが、ココまで粘り強くフラの情報を集め記録したのは、フラをはじめとしたハワイ文化が近いうちに滅亡するであろうと考えたからです。
実際には、衰退する時期もあったものの、今なお語り継がれ、ハワイ文化に不可欠な要素として考えられ世界各地で注目されています。彼が、残した記録は、過去のフラの形態とその意義を知るための必要不可欠な参考書として、フラ文化の再生と隆盛に重要な役割を果たしているといえます。

マイク・アイウ・レイク:(1925年 - 1986年)
- Hawaii is hula and hula is Hawaii (フラとはハワイであり、ハワイとはフラだ)
この表現は、もともとマイク・アイウ・レイクが語った言葉だと言われています。
20世紀後半のハワイを代表するクム・フラと目されるレイクは、フラとは「私たちの見るもの、聞くもの、臭うもの、味わうもの、触るもの、感じるものすべてを表現するハワイの踊り」であると述べています。
レイクをはじめとするフラを大切にする人々にとってフラはハワイのすべてであると考えられています。

マイク・アイウ・レイクは、1925年マーガレット・スーザとしてホノルルで生まれます。
物心つく前に母方の大叔母のところのハナイ(養子)となり、父親の事は全く知らず、また母親とも限られた交流しか無かったそうです。
カトリックの修道会が経営する学校に通っていた彼女は、クラスメートを通じてフラを習い始め、14歳の時にプア・アルメイダ(ミュージシャン)の目にとまり、ホノルルのパゴパゴ・クラブで踊り始めます。第2次大戦時は、ハワイに駐屯する兵士相手のショーを中心に活躍します。戦後は、ワイキキのホテルでフラを踊り、人気を呼びます。
1946年には、「マーガレット・アイウ・フラ・スタジオ」をオープンし、地元の人々にフラを教え始めます。

レイクは、フラの理解を深めるため、フラ・パフを教えるロザリー・ロカリラ・モンゴメリーに指導を仰ぎます。また、 ハワイの言葉と文化に最も造詣の深い人物として尊敬されたメアリ・カヴェナ・プクイの元に通い、ハワイの歴史についての知識を深めます。
こうした努力が実り1948年、クム・フラになるための儀式であるウニキを経てホオパオ(チャンター)とクム・フラとして認められ、自分のフラ・スタジオを「ハラウ・フラ・マイキ」と呼ぶようになります。
20世紀に入って、初めて「ハラウ」という言葉を自分の教室に用いる事が許されたクム・フラです。

アフリカ・アジアを中心に独立運動が盛んになり、1959年にアメリカとなったハワイでも、ネイティブ・ハワイアンの権利を復興しようとする動きが活発になります。その一環として一部の若者の間で、古来のハワイ文化を再生するべきだという考えが見られ、フラに関心が集まります。
レイクは、これらの若者を一気に集め古典フラを教えることを思いつき、1971年春、伝統を次世代に伝えるためフラの教師になる意欲と才能のある若者を募集する公告を地元新聞に掲載します。
こうして集まった若者を1年~2年程度で、集中的に教育することで、ハワイの伝統文化を受け継ぐ若い世代を効率的に育てようとします。
レイクは、こうした集中教育方式を、1983年まで続け88名の生徒を教え、うち42名をクム・フラに育て上げます。残りの46名も「オラパ」(優秀な踊り手に与えられる称号)という称号を与えられます。
レイクは、ネイティブ・ハワイアンでないものにも、喜んでフラを教えたが、レイクの教育方針に批判が無かったわけではありません。昔のクムは、同時に何人もの生徒はとらず、また元来口承により、伝えられてきたフラを、黒板を使い、生徒にノートをとらせる教え方は、伝統にそぐわないとされ、自分の名誉と利益のために活動しフラを侮辱しているとさえ言われます。また、何十年もかけてようやく得られるものだったクム・フラの肩書きを1・2年で認めてしまうことに対しては特に反発が強かったといいます。

しかし、レイクは、当時のフラの大御所として知られていた人物(ロカリア・モンゴメリ、ヴィッキー・イイ・ロドリゲス、メアリ・カヴェナ・プクイら)たちの支持を頼りに、批判に耐えながら教育を続けます。ハワイの若者たちに教える一方、観光客に対しても、正しいフラの知識を学んでもらいたいと願い、1958年ワイキキ・カラカウア通りに「ハラウ・ワイキキ」を開きます。レイクのこうした考え方は、教育方針と同様に、当時は斬新すぎて受け入れて貰えませんでした。結局、「ハラウ・ワイキキ」は、1年あまりで多額の負債を抱えて閉鎖を余儀なくされてしまいます。借金は、持ち前の努力と多くの友人の支援を受け完済し、再び「ハラウ・フラ・オ・マイキ」で多くの人々にフラを教えます。
彼女の長年の努力は、ようやく認知され、ハワイ観光局からハワイ文化を保存し、広めた第一人者として「マハロ賞」を授与され、その功績を讃えられます。

メアリ・カヴェナ・プクイ:(1895年 - 1986年)
ハワイ州で最大、太平洋諸島の中でも有数の博物館であるビショップ・ミュージアム。
ビショップ・ミュージアム
ビショップ・ミュージアムは、カメハメハ一世のひ孫にあたるバーニス・パウアヒ・ビショップ(1831-1884)の夫であるチャールズ・ビショップが1889年、亡き妻を追悼して設立したもので、ハワイアンの子供たちがミュージアム展示を通じて、伝統を学び、自分たちの文化に誇りが持つことが出来るようにすることを目的としていました。
1920年代には、アメリカの名門校・イエール大学と提携し、ハワイ文化に関する重要な研究を行い、その成果を付属の出版局から次々と発刊します。
これらの研究に大いに貢献した人物として、メアリ・カヴィナ・プクイが上げられます。
プクイは、ハワイ島・カウ地区の生まれで、ハワイ語が堪能で、伝統文化に精通したクム・フラでもあります。
1930年代から50年代にかけてビショップ・ミュージアムに23年間勤務する間に、正しいフラの知識をハワイ社会に紹介するよう努力します。島の観光化が進むにつれて、ほとんどの観光客には、フラは「美人の腰ふりダンス」程度のものとしか理解されていない状況に対し、本来のフラの意味を説明しようとしました。
ハワイアンの中には、フラにまつわる知識は、よそ者である白人たちや観光客などと共有するものではないという考え方もあったようですが、プクイは、フラの歴史を守るために積極的に自分の知識を分かち合います。
また、ビショップ・ミュージアムの資料館に眠る数々のハワイ語文献を発掘し、翻訳します。特に、19世紀に収集された伝統的メレを系統立てて分類することで、今日フラ・カヒコで用いられる一連のメレの再発見に大きく貢献します。
また、ハワイ語でメレを読み、録音することで、次世代に詩だけでなくその音を残すように努力します。(中にはCDとして購入できるものもあります。)
1970年代に伝統的なハワイアン文化の見直しが始まり、多くの若者達が熱心にフラを学ぶようになり、彼らのおおくはミュージアムを訪れ、プクイが整理した資料を見ながらメレの種類とその意味、その発言について学んだと言います。
メレの価値が認められ、後世に残されたのは、ハワイの歴史や伝統に関する著作を生涯50冊近く著し、ハワイ語辞典の編纂も行ったプクイの豊富な知識の賜だったといえます。

アメリカ人宣教師:(1820年)
1778年、イギリス人探検家ジェームズ・クックがハワイに来航します。このとき、西洋式銃器の伝来、船員の持ち込んだ性病・結核など、クック来航による遺産はいろいろありますが、何よりも大きかったのは、ハワイの存在が知られたことです。クック来航を機に欧州・北米航路の寄港地として、外国船が頻繁に訪れるようになり、ハワイ文化に大きく影響していきます。
その中で、フラに大きく影響したのは、キリスト教宣教師です。1819年、カメハメハ大王(一世)が逝去し、息子が王位を継承しますが、実権は一世の第一王妃カアフマヌ皇太后が握っていました。カアフマヌ皇太后は、古い慣習を脱し、西欧文化を積極的に取り入れようとします。
1820年、ボストンから宣教師たちが来航し、カアフマヌは徐々にキリスト教に傾倒していきます。1825年には改宗し、キリスト教は急速に普及していきます。ヘイアウは次々と破壊され、女性の行動を規制していたカプー(宗教的なタブー)が撤廃されます。 特に、一神教であったキリスト教の価値観では、多神教は野蛮で異端な存在であり、その神々を讃える踊りは異教の悪しき習慣に過ぎないとし、フラを禁止するよう提言します。こうして1830年カアフマヌは、フラを公に踊ることを禁止する政令を出します。以後約50年ものあいだ、フラは公の場から姿を消すことになります。
同時に口承に頼っていたこの地に伝わる貴重な歌や踊りの多くが失われてしまいます。 フラを、公の場から追いやった宣教師ですが、文字をもたないハワイ語を文書として残した(ハワイ語訳聖書を作成)功績は評価に値すると言えます。

ジョージ・ナオペ
ハワイアンネーム : LANAKILAKEKI AHIAL'I NA'OPE
ハワイの人間国宝で、ハワイ中から尊敬されるフラ・マスター。
3歳の頃から毎日4時間のチャントを学ぶ。メリーモナーク・フェスティバルの名付け親で、カヒコ復興の
立て役者でもある。日本でも数々のイベントを主催している親日家でもある。

フランク・カワイカプオラニ・ヒューエット
オアフ島・ホノルルで代々フラを継承する家系に生まれる。
2004年度からメリーモナーク・フェスティバルの審査員を務める。
著名なクム・フラに指導を行う、「先生の先生」という立場。

アロハ・ダリレィ
オアフ島生まれ。ハワイで尊敬されているクム・フラの一人。
オアフ島・カネオヘにスタジオを持ち、東京・名古屋にも姉妹提携校がある。
メリーモナーク・フェスティバルの初代ミス・アロハ・フラ。

サイ・ブリッジス
メリーモナーク・フェスティバルの審査員としておなじみ。
オアフ島・ライエにあるポリネシアン・カルチャー・センターのシニア・ディレクター。
以前は、自らハラウを開き教えていたが、現在は、多忙のため休止している。

ジョニー・ラム・ホー
メリーモナーク・フェスティバルの常勝チーム「ハラウ・カ・ウア・カニ・レフア」を主宰。
特定のクムにつかず、フラを極め、その型破りな振り付けは「天才」と称される。
2004年度からメリーモナーク・フェスティバルの審査員を務める。

チンキー・マーホエ
ジョージ・ナオペ氏やダリル・ルペヌイ氏と言ったハワイを代表するクムの指導を受ける。
力強くコミカルな振り付けのカネ・アウアナで特に魅力を発揮する。
「ハラウ・フラ・オ・カヴァイリウラー」を率いる。22歳でフラをはじめたという異色の経歴の持ち主。

ヘアラニ・ユン
1985年メリーモナーク・フェスティバルのミス・アロハ・フラ。
1987年に「フラの神様」と称されるダリル・ルペヌイのハラウ「The Ladies of Ke'Ala O Ka Laua'e」を
引き継ぐ。
後に、人気バンドHAPAの元リードボーカルであるケリイ・カネアリと結婚し、子育てのためハラウは縮小し、
主にダンサーとして活躍。2005年から本格的にクム・フラとしての活動を再開。

ジョージ・カナニケアクア・ホロカイ
尊敬を集めるクム・フラの一人。
1952年に19歳でハラウを主宰し、多くの有名クムを輩出します。
ワークショップなども精力的に行い、クム・フラのクム・フラとして活躍中。

サニー・チン
2003年度のミス・アロハ・フラを射止めたジェニファー・オヤマを擁する「ハラウ・ナ・マモ・オ・プウアナフル」を
率いるクム
ホノルル生まれで、4歳から祖母にフラを習う。
コスチュームデザインからショーのプロデュース・振り付けまでこなす多才な人物。

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